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《田園からの風》 ”自然を求め続けた画家”

この記事の投稿者: 総務

2014年10月10日

八ヶ岳南麓の日野春小学校は、少子化の影響で町内の4つの小学校がひとつに統合され、廃校となった。今年春、その遊休校舎が社会福祉と地域の交流施設、山岳画家の美術館として再出発した。

 

五感を研ぎ澄ますために山に登る

 

自然を愛し、自然を求め続けた画家。犬塚勉は、全く無名の画家だった。

1949年生まれ。東京の多摩で育ち、東京学芸大学で美術を学び、美術教師として子どもたちを教えながら、山や丘の風景を描き続けた。五感を研ぎ澄ますために本格的な登山に挑戦し、身体で浴びる自然の息吹そのものを緻密な筆遣いで描いた。森・山・切り株・ブナ・渓谷などをモチーフとした写実的な風景画。

「『感動ある絵を描くこと』、この他には何も望むものはない」と、常々奥さんの陽子さんに語っていた。

1988年9月23日早朝、陽子さんに「いってくるよ」と、寝室のドアを細く開け、すまなさそうな笑顔を残して谷川岳に出かけた。谷川連峰赤谷川から平標山へ向かう途中、悪天候のため遭難。尾根に出たところで力尽きて永眠。帰らぬ人となった。享年38歳。

2008年没後20年に、多くの友人たちによって長野県東御市の小さな美術館で開らかれた展覧会は、静かな話題を呼び、来会者が多くの言葉を残した。

「緻密な絵の中に、風、せせらぎ、香り…、目に見えないものが描かれているようです」「大地の暖かさを感じ、すべてが生きているのだと感じます」。

翌年NHKの日曜美術館「私は自然になりたい」で紹介され、犬塚勉の絵画が広く世に知られるようになった。その後、NHKプロモーションの企画で、東京、京都、広島と各地で巡回個展が開催され、多くの人々を魅了した。

 

緻密に描かれた草木

土の匂い、生命の感動が伝わる

 

犬塚勉の作品のひとつに、「梅雨の晴れ間」がある(本誌目次写真)。どこにもある自然の風景であるが、入念に表した画面からは雨上がりの土の匂いまで伝わってくる。草木の葉、花弁や葉脈まで一つひとつが緻密に描かれている。湿気を含んだ草が光を浴びながら柔らかな色味を放っている。木陰の小さなドクダミやシロつめ草も雨に洗われていきいきしている。作品を見ていると、自分がその風景の中にいるかのような不思議な感覚になる。

ひとつ一つの植物を克明に描く超リアリズムの技法は、写真では表現できない質感を生み出し生命の感動が伝わってくる。

作品「縦走路」(本誌目次写真)は、南アルプス北岳の尾根から尾根への縦走路で大小の小石が克明に描かれている。ひとつとして同じ形の小石はなく、密度が高く山の雰囲気をよく伝えている。

 

南アルプスの麓で暮らす夢

 

犬塚勉の美術展が日野春小学校で実現したきっかけは、たまたま同じ学校で教えていた元同僚が定年退職後、八ヶ岳に移り住み、日野春小活用の取り組みをしていたからである。

描かれたものはすべて、陽子さんにより大切に保管されてきた。200点余りの作品、60冊にのぼるスケッチブックのほか、克明に記録された制作ノートなどが残る。陽子さんは、その保管場所と展示場所を探していたのである。

「犬塚は南アルプスの麓に住み制作することが夢でした。北岳からの帰途、ふと立ち寄った日野春の景観と里の静けさに深く感動し、『日野春はいいところだよ』と何度となく繰り返しておりました」と語る。

制作ノートには、その思いが記されている。

・僕と陽子と愛息嶺と悠との4人暮らし。南アルプスを仰ぎ見つつ彼方に八ヶ岳を臨み、朝な夕なにその雄姿を愛でる。(1985年8月)

・その土地に溶け込んだ生活の中から、その土地の心を描く。土を耕し作物を育てる人、都会でいつか自然に還ろうと思っているすべての人に喜ばれる、そんな絵を描きたい。(1987年8月)

・日野春の丘に居を構え、ほんとうの風景を描く生活に至るためにはどうすればよいのか。(1986年2月)

・絵を見るためには街へ出なければならない。そこがおかしい。絵が見たければ田舎へ来いというあり方。地方の廃校、校舎を使っての個展。(1987年7月)

陽子さんは、「ほんとうに不思議な縁です。二人が求めてやまなかった夢がこんな形で実現できるなんて……」と語る。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”新たな移動の時代の始まり”

この記事の投稿者: 総務

2014年9月10日

少子高齢化・人口減少化社会の中で、全国のほとんどの県(東京や大阪を除いた)や市町村で都会からの移住者を受け入れて地域を活性化させようという定住促進事業が取り組まれている。この十年で都会の人を受け入れる施策も大きく進んだ。

地元の人々も都会から来る人に対して好意的で、以前の「来たり者」「よそ者」としてあまり歓迎されていなかった時代と比べると隔世の感がある。

そしてまた各地に出かけてみると、都会から来た多くの人々に出会う。

 

都会からの人で活気を取り戻す

 

鳥取県倉吉市に先ごろ出かけた。江戸時代の城下町で、堀割が流れ赤い瓦に白壁土蔵の立ち並ぶ古い街並み。20数年前に訪れたときは、人影が少なくすっかり衰退した町であった。

昭和40〜50年代の高度経済成長期には、倉吉に限らず地方の古い街並みは、どこも同じような状況にあった。

それが今回出かけてみると、活気のある街に変身しているのである。古い土蔵や昔の町屋を再生し、骨董や工芸品店、カフェやレストランなど、数多くの店があり、多くの観光客で賑わっている。

立ち寄ったフレッシュジュースのカフェは、埼玉からやって来た若い女性が経営。都会から移り住んだ人のお店が多い。地元の商工会も、空き家を利用して「お試し店舗」を月額5千円で1年間貸して自立への手助けをしている。

 

復活した長野市善光寺門前町

 

長野市善光寺は、昔は門前町として栄えた町だった。路地を入ると土蔵や多くの古民家が立ち並ぶが、空き家が増えて、衰退した町となっていた。昭和の末の頃である。

その町が近年、土蔵や古民家を再生した新しい店が増えて、活気を取り戻し多くの人々が訪れる町となった。

その復活の一翼を担ったのが、倉石智典さん(41歳)の空き店舗の仲介・再生事業である。

倉石さんはもともと長野市生まれ。東京の大学を卒業して都市計画事務所等に勤めていたがふるさとにUターン。「昔の賑わいのある町にしたい」と、門前町に会社を設立。空き家の所有者に働きかけて、新しい店舗として貸すことを勧める。家賃は月額5万円程度、修復費用は借り手が負担する条件。所有者は「いずれ取り壊さなければ」と考えている人も多く、10軒に1〜2軒程度しか了解が得られない。建物が登記されておらず、所有者が分からないことも多い。

こうして集めた空き店舗の見学会を毎月1回開催。ウェブサイトで告知する。見学会の参加者は20〜30歳代が多く、毎回20人ほどが参加する。県外からの参加者が半数を超え大都市圏からも多いという。

工芸品店、工房、雑貨店、アトリエ、カフェなど店舗に合わせてお店をデザイン。専門家である倉石さんに再生工事を依頼するが、入居者自身が自分好みに壁塗りや修復が可能なのも魅力となっている。

この5年間で倉石さんが手助けして新たに生まれた店舗は60軒になる。

寂れていた町も、一旦プラスに回転し始めると、そのムーブメントがどんどん拡大していく。

 

村役場職員の6割が都会から

 

「日本でいちばん小さな村」として知られた愛知県北設楽郡富山村。長野と静岡に県境を接し、山々と佐久間ダム湖に挟まれた急峻な地にあり、人口219人。平成17年に隣村の豊根村と合併し、ミニ村の座を高知県大川村に譲った。

南北朝時代に源氏の落人が隠れ住んだといわれるだけに、ほとんど平坦地はなく、民家は急斜面に石垣を築きその上に建つ。

合併する少し前、その村を訪ねた。民宿に宿泊した朝、役場を訪問する途中、10名ほどの若いお母さんたちと保育園児がバスを待っていた。村営住宅に暮らす人たちで、一見して都会から来た人たちと分かる。

役場の総務課長の話によれば、村内の子どもたちは、佐久間ダム湖を渡り飯田線で静岡県浜松市の高校に通う。ほとんどが卒業後は都会に出て戻って来ない。役場や森林組合、社会福祉施設などで人材募集しても村内出身者の応募はない。首都圏や名古屋市からの応募者で定員をはるかに超える。「今や。役場の職員の6割が都会から来た人たちです」。

この辺境な地は、都の人がつくったといわれるが、700年の時代を経て、また新たな移動の時代が始まったといえる。

地方の活性化は、移り住んだ都会の人が原動力となっている場合も多い。

大都市では、ひとりの人間の存在は小さいが、地方ではひとりの人間の重みが違うのである。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”「同じところに住み続ける」ということ”

この記事の投稿者: 総務

2014年8月7日

それぞれの地域に歴史あり文化あり

日本は稲作農耕文化の国で、農村では人々は祖先伝来の土地を耕し続け、同じ場所に暮らしてきたと思われがちである。しかしそれは、いつの時代からであろうか。

田舎に出かけると、一見すると同じような農村風景であっても、それぞれの地域に歴史があり文化があり、それらに触れることが多い。

近隣同士の集落でも、集落によってその成り立ちが違い、風習が異なる場合がある。

山梨県芦川村(笛吹市)は、富士五湖と甲府盆地との山あいにあり、深い渓谷沿いに茅葺民家が点在する村である。川下から川上に4つの集落があるが、冠婚葬祭の風習がそれぞれ異なる。一番川下の集落では、棺桶は丸棺で膝を折り曲げて座姿で納棺される。川上の集落はいずれも寝棺であるがその形に違いがあるという。ここには落人伝説があり、それぞれここに移り住んだ年代やどこからやって来たかによる違いからであろう。

 移動する人々

「日本人が同じところに住み続けるようになったのは、徳川幕府が安定した江戸時代になってからである。それ以前は人々はあちこちと移動していた」と、昭和の民俗学者の宮本常一はいう。彼は戦前、戦後の日本の農山漁村をくまなく訪ね歩き、『忘れられた日本人』『村里を行く』『日本文化の形成』など多くの著書を残している。

平家落人伝説は日本の山村いたるところにあるが、なにも平家だけでなく、さまざまな戦いに敗れて落ち延びた人々によってつくられた山村はたいへん多い。

そして昔は、集落の人口が増えて生産力が伴わなくなると、”分村“といって村を分けたという。村の一部の人々が新天地を求めて他に移り住むのである。ちょうどミツバチが分蜂(巣分かれ)するのと同じである。

分村してできた村は「親村」の慣習や習俗を引き継いでおり、周辺の集落とは異なる。

愛知県北設楽郡東栄町には、鬼が出て夜を徹して舞う”奥三河の花祭“として知られる伝統芸能がある。

毎年11月から3月初旬の土曜日、11の集落で順次盛大に行われる。その祭りを見た後、東栄町のある集落を訪ねたことがある。

「じつはこの集落には、花祭はないんです」と、お会いした地元の人の話。花祭ではなく、子ども歌舞伎があるのだという。その集落の名は「下田」といい、言い伝えによれば、伊豆下田から越してきた集落という。下田には子ども歌舞伎があり、それがここに伝わった。

時代は分からぬが、分村して数百キロも離れたこの地に、どのようにして辿り着いたのだろう。しかもそれは少人数ではなく、子ども歌舞伎が演じられるほどの集団として。

昔の人々の生きてゆくたくましさに敬服するばかりである。

 今も残る中世の面影

農山村に行き、地元の長老の話を聞けば、日本の中世の歴史がどこにも転がっている。

ふるさと情報館八ヶ岳事務所から近い長坂下条は70戸ほどの集落である。集落のはずれの林の中に、地元で「長閑屋敷」と呼ばれる場所がある。武田信玄の24武将のひとり長坂長閑の屋敷跡という。この集落の世帯の苗字は、三井、相吉、植松の姓が多い。「昔、三井城、相吉城があった」という。それは長閑よりももっと以前の、この集落ができたころにやってきた人の屋敷跡であろう。

長野県下條村は、天竜川沿いの山間地にあるが、その村名は室町時代のはじめ甲斐の国の下條郷(現・韮崎市下條)からこの地に入った下條氏一族に由来するといわれる。長坂下条もこの下條郷からやってきたのかも知れない。

都市から田舎へ新たな動き

江戸時代徳川幕府は、こうして生まれた村々に年貢米を共同責任で供出させ財政を確立した。そのために農民の定着を図ったのである。

江戸時代末期の日本の人口は3千万人、ほとんどが農村にいた。明治維新の近代以降、人々は徐々に都市へと移り住み、戦後高度経済成長に伴い、大都市への一極集中が急速に進み都市に人口の7割が集中するようになった。

経済成長のみを追う都市の極度の肥大化はさまざまな矛盾をもたらし、都市が快適な生活空間でなくなり、自然豊かな農山村が見直されるようになった。

そして近年、都市から田舎へと新たな動きが始まっている。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”都会でできないことを世界に発信”

この記事の投稿者: 総務

2014年7月9日

都会と農村の不幸な歴史

八ヶ岳清里高原は、かつては未開の地であったが、昭和8年に小海線が開通、昭和13年にアメリカ人牧師のポール・ラッシュが青少年教育キャンプ場として清泉寮を開設、同じ年に小河内ダムに沈む丹波山村から開拓者が入り新たな歴史が始まった。

戦後、ポール・ラッシュは酪農と高原野菜の導入を勧め理想農村の建設に尽力した。緑の牧草地に赤い屋根の牛舎は高原農村のモデルといわれた。

そこに突然やってきたのは、都会からのバブル経済だった。若い女性や高校生があたかもイナゴの大群のように押し寄せ、清里駅前を東京の原宿通りに一変させた。それはほんの瞬間で、バブル崩壊とともに消え去った。いまも駅前や国道141号沿いに当時のきらびやかな建物やハーモニカ店舗が無残な姿で残る。

あの頃の日本は異常だった。清里だけではない。どんな山奥でも少しでも平坦な山があれば、ゴルフ場開発資本がやって来て土地を買いあさった。開発途上で投げ出し、そのまま放置され荒れた山河となった所も多い。都会が田舎を荒らした時代である。自然はもちろん、人々の心まで荒廃させた。

再び都会と農村の不幸な歴史を繰り返してはならない。

厳寒期のアイディアサービス

さて今、清里はどうなっているか。

清里開拓の歴史と共に歩んできたキープ協会(清泉寮)は、広大な敷地を有する牧場を持ち、乳牛・ジャージー種の放牧飼育を主体とする循環型の酪農を行っている。そこでできるソフトクリームの美味しさは格別で、それを目的に訪れる人も多い。

キープ協会で30年前から行っている自然環境教育事業は、子どもや若者、成人を対象に様々な自然体験プログラムを持ち、現在では国際的にも高く評価されている。

清里高原には、観光協会に登録しているペンションが60軒余あり、数多くのホテル、プチホテル、カフェ、レストランなどがある。厳寒期の2月、午前10時の気温がマイナス5℃を下回ると、その日のレストランのメニューは半額サービス。ペンションは宿泊した日が下回ると次回の利用は半額。真冬なのにその日のレストランは人が並ぶ。それをきっかけにリピーターになる人も多いというから、ちょっとしたアイディアサービスである。

本ものであれ!一流であれ!

清里駅近くの国道141号沿いに「萌木の村」がある。オルゴール館や地ビールレストラン、クラフト工房、雑貨店、ホテルなど20軒ほどの複合施設である。

「萌木の村」社長は舩木上次さん(64)。父親は丹波山村からの開拓者で、戦後キープ協会で農場長を勤めた。その縁で舩木さんはポール・ラッシュに可愛がられた。「何事も本ものであれ!一流であれ!」の精神が育ち、23歳の時、「萌木の村」の原点となった喫茶店を誕生させた。現在のビアレストラン「ロック」で、そこで醸造される地ビールは、全国酒類コンクール地ビール部門総合第1位に何度も輝いている。

「大人の、成熟したお酒の文化を清里から発信したい!」。レストランの裏手の小高い丘の斜面をスコップで自分たちで掘り進み、レンガを積み上げて地中貯蔵庫を今春完成させた。年間14℃、湿度50%に保たれる洞窟の中で、ワイン、ウイスキー、地ビールを熟成させる。ワインは県内6社のワイナリーに協力してもらい、熟成が始まった。地ビールは度数を高くして寝かせるなど、新たな試みを始める。年代物のお酒をレストランやホテルで楽しめるのはいつになるのであろうか。

オルゴール博物館「ホール・オブ・ホールズ」は、世界からアンティーク・オルゴールはじめ自動演奏器など260台が収蔵されている。オルゴール曲と作曲家の思いを解説しながら音楽家のピアノ演奏のコンサートが1日2回行われる。

毎年7月〜8月上旬にかけて、約2週間の日程で、「萌木の村」特設野外会場で「清里フィールドバレエ」が開催される(今年は7月28日〜8月10日)。日本で唯一、連続上演される野外バレエ公演として、清里の夏にはなくてはならない催で、今年で25年を迎える。2004年には1万人を超え、全国から多くのファンが足を運ぶ。ヨーロッパでは野外バレエが盛んに開催されており、劇場では見ることのできない、風になびく衣装の美しさ、月に照らされる舞台、自然と共存する野外バレエならではの感動の舞台である。

舩木上次さんは夢多きロマンチスト。「ここには都会にないものがある。都会ではできないことができる。ここから世界に情報を発信してゆきたい。」と情熱的に語る。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”選択的土着民”と“宿命的土着民”

この記事の投稿者: 総務

2014年6月10日

桜の満開一ヶ月楽しめる八ヶ岳南麓

八ヶ岳清里高原は現在では全国的にも知られた観光地。八ヶ岳南麓は標高500mから1500mまであり、春の桜の開花期は下から上まで一ヶ月間も楽しめる。その最上部が清里である。近年の温暖化の影響で現在はさほどでもないが、かつて冬は厳寒の地だった。

JR小海線清里駅から上は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが高原実験農場として開いたキープ協会の諸施設。駅から下は、昭和13年から始まった開拓地である。

地域の歴史と暮らしを学ぶ

都会から八ヶ岳に移り住む人々の会「八ヶ岳ふるさと倶楽部」は、地域の歴史と暮らしを学ぶ連続講座を「萌木の村」の「オルゴール館」で開いた。

「萌木の村」は国道141号線沿いにあり、広い敷地にホテル、レストラン、店舗、オルゴール館などを持つ複合施設。今回の講座は、そこを主宰する舩木上次さん(64)が講師である。

舩木さんは集まった80名の人々を前に、開拓時代の苦しかったことを振り返りながら、「開拓者は様々な境遇に直面し、多くの仲間はこの地を去りましたが、私たちは、この地が好きでここに残り、この地に生き抜こうと今日までやってきました」と語り、新たに新住民となった人々に「一緒に地域づくりを」と呼びかけた。

厳しい清里開拓の歴史

昭和13年、小河内ダムで水没する丹波山村などから28世帯が開拓に入る。その地は、水源の乏しい、火山灰の酸性度が強い荒地。入植に当たり県から手渡されたのは鍬一丁のみ。赤松や雑木が茂る原野を徒手で伐採抜根。岩や熊笹を除去するのは大変な労苦。畑にするのに10年を要した。最初は野菜や雑穀を播いても、ソバ以外はほとんど採れなかった。

笹小屋と呼ばれた粗末な家。丸太を組み、屋根に杉皮を張り、むしろを入口に垂らす。冬は厳しかった。囲炉裏で松の根を燃やすと、松脂の煙で顔は真っ黒、目は赤く腫れ、体は臭く臭った。最大の苦しみは水汲みだった。遠くの泉から天秤で熊笹の山道を日に数回も運ぶのである。

東京の水問題を解決するために故郷を失った人々が水に苦しみ、水問題を解決したのは大門ダムが完成した昭和63年、なんと50年の歳月を要したのである。

貧しいながらも、互いに助け合い励まし合う関係は、やがて逞しい共同体意識に成長し、住宅、分教場、簡易水道、公民館などの建設へと発展していった。

昭和25年酪農が導入され、牛乳は甲府市に出荷、バター、チーズも製造するようになった。開拓農家のほとんどが酪農家となり、耕作地は雑穀農地から牧草地となった。そして緑の牧草地に赤い屋根の畜舎、とんがり帽子のサイロが建てられ、ここに新しい清里の原風景がつくられた。日本の高原農村のモデル地域といわれた。

突如起こった「清里ブーム」

昭和40年代に入ると牧場民宿が始まった。そして昭和46年になるとレジャーブームで、アンアン・ノンノン族の若い女性が都会から押し寄せるようになる。

突如起こった「清里ブーム」は、清里駅前を東京原宿通りのように一変させた。地価は高騰し、それまで酪農を基盤に民宿を経営していた農家も、酪農を辞め民宿だけになるものも多かった。

50年代にはいると、洋風のペンションブームに移行して民宿は客が途絶え、土地も売却して去っていく農家が増えた。

平成に入り、文化的レジャー施設が増えるに従い、来訪者は若い女性から家族層に変わり、最近は都会から移り住む人々も多くなってきている。

“選択的土着民”が互いに力を併せて

このように清里は、都会に翻弄された時代を経て今日に至っている。

舩木さんは、「田舎には、都会にない宝物があります。地元の人はそれに気付かないで、そこで生まれたから仕方がないとか、都会の華やかさだけを追い求める人もいます。私は、その地が好きで、その地の宝物を大切にする生き方を選ぶ人を”選択的土着民“と呼び、そうでない人を”宿命的土着民“と呼んでいます」。

「皆さんは、都会からこの地が好きで、ここを選択されました。皆さんも 同じく”選択的土着民“です。双方が互いに力を併せて、これからの新しい地域を創っていきたいと思っています」。

 

その土地の歴史、先人の想いを知ると、より一層その土地に対する愛着が生まれる。田舎暮らしで新しい土地で暮らすなら、まずその土地の歴史を知ろう。

この号は次月号に続く。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 小学校廃校と地域の文化力

この記事の投稿者: 総務

2014年5月7日

新たな再出発

小学校が消えていく。

いま全国各地で、少子化の影響で明治初期に尋常小学校として発足した歴史ある小学校の廃校が進行している。

桜が満開となった4月10日、旧日野春小学校は新たな再出発の日となった。

昨年、山梨県北杜市長坂町にあった4つの小学校がひとつに統合された。廃校となった旧日野春小学校は、公募の結果、地元の社会福祉法人が借り受けた。障害者自立支援施設として、さらには地域の人々の交流施設、山岳画家の美術館として複合的な活用がされることになった。

私たちの「八ヶ岳ふるさと倶楽部」(本誌を通して八ヶ岳に移り住む人々のゆるやかなネットワークの会)も、理科教室を借り受けて「いつでも気軽に利用できるサロン」として第一歩を踏み出すこととなり、甲斐駒ケ岳を望む広い校庭で「桜の花をめでる会」を催したのである。

福祉法人事務局長の坂本ちづ子さんは、「ここを拠点に、地域の人々と一緒にNPO法人『野はらファーム』を設立し、遊休農地を利用した有機野菜づくり、味噌や果実ジュースなどの食品加工、直売所やそれを通した都会との交流などもしてゆきたい」と抱負を語る。。

学校制度と町村の歴史的推移

日本の学校制度は、町村の歴史的推移と連動してきた。

江戸時代、日本には7万余の「むら」(現在の集落の大字)があった。明治になり一町村に一つの尋常小学校を創るために「むら」が合併し1万5千の町村が誕生した。「明治の町村制」である。そして戦後、一つの新制中学校を創るため「昭和の町村合併」が行われ約3千5百の市町村となった。そして「平成の市町村大合併」は。少子化に即応した小学校の統廃合を図ることも目的の一つであった。

小学校の廃校は、単に校舎や校庭の施設が無くなることにとどまらない。小学校は、誰にとっても子どもの頃の「心の原風景」であり、幼なじみの友達や地域の大人たちとの出会いと繋がりの広場であった。小学校は単なる建物ではなく、小学校区というコミュニティ空間の精神的な中核を成している。廃校はそれが契機となって、地域コミュニティの衰退崩壊に繋がりかねない。

日野春小学校は、明治時代に旧日野春村の人々が土地と労力を出しあって、子どもたちのために、地域でも最も景観のよい高台に建てられた。昭和の町村合併で長坂町に、平成の市町村大合併で広域の市に移管された。もともと地元の人々が創った学校なのに、市の意向だけで売却処分されかねない状況となった。地元の人々はそのことを快しとせず、廃校後は地域づくりのために活用することを強く望んだ。その結果、同じく廃校となった2校に先駆けて活用策が実現したのである。

コミュニティが地域の活力を生み出す

日野春小学校の近くに八幡神社がある。夏祭りには、その神楽殿でその年7歳となった女の子による「稚児の舞い」が奉納される。男の子による「子ども相撲」とともに、江戸時代から続く伝統行事で、都会に出た人々も帰郷して賑やかな夏の夜となる。

田舎には、豊かな自然とともに、よく耕された田や畑、五穀豊穣を願う神社の祭り、そこで暮らす人々が織りなす長い歴史と文化がある。小学校も地域の子どもたちの”共同の子育て“の場としての役割を果たしてきた。

そうしたコミュニティが地域の活力を生み出してきたのである。

祭りの復活が地域を復興させる

2004年10月23日の新潟県中越地震で山古志村は、壊滅的な被害を受け全村民離村を余儀なくされた。村の再興は不可能で閉村とさえ言われたが、やがて村は息を吹き返す。

私の所属するNPO日本民家再生協会では、地震直後から現地に支援隊を派遣し救援活動に取り組んだ。傾いて危険家屋として赤紙の貼られた古民家の診断と再生相談活動を行う。そんな中、倒壊した小さな観音堂を再興するため、カンパと資材を集め大工さんを派遣した。その観音堂は、集落の人々にとっては、春と秋の祭りの大切な場所だったのである。集落の家々よりいち早く再建された観音堂では、さっそく春祭りが開催され、村に帰ろうかどうかと迷っていた人々を大きく励ますことになった。

山古志村では、重要無形文化財の「牛の角突き」(闘牛)の復活も村再興の大きなエネルギーとなった。

今回の東日本大震災でも、地域に伝わる伝統的な祭りの復活が地域の人々を大きく励ましている。

農村には、地域が育んだ豊かな文化がある。田舎で暮らしてみると、誰もが実感することである。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 自然災害に強い自給率高い暮らし

この記事の投稿者: 総務

2014年4月9日

◆大雪で5日間閉じ込められる

最近は「異常気象」続きである。

今年2月中旬、関東甲信地方は記録的な大雪に見舞われた。甲府市では、明治24年からの観測史上、最高の114㎝の積雪であった。120年来、記録にない大雪である。

八ヶ岳南麓(山梨県北杜市)では150㎝を超えた。私の家は、JR中央線日野春駅から約2㎞の高台にある。朝起きてみると、降りしきる雪が宙を舞い、屋根から落ちた雪が背丈を超えるほどうず高くなっている。とても外に出られる状況にはない。

私は、それから5日間家の中に閉じ込められることになる。集落の外れに我が家があるため、「あの家は別荘で今は誰も居ないだろう」と、300メート ル先で除雪車が帰ってしまったからである。「集落の外れ」で環境がいいと思っていたことが裏目に出たのである。とてもそこまでスコップ一丁で除雪するのは 無理と悟る。

薪ストーブで家の中はポカポカ、食料のストックは十分で食べ物には困らない。となれば「雪はいずれ消えるもの」と籠城を決め込む。

そうすると不思議なもの。いつも「何かしなくては」という脅迫観念に追いたてられるような気持が何処かに消え、心がとても落ち着いてきて、ゆったりと至極の時間が過ぎていく。

ストーブの中のゆらりと燃える炎を眺めながら、「何もしない。何もしなくていい」という時間を持つことがいかに人間を回復させることか、をしばし考える。

昔、雪国では囲炉裏を囲み、ゆったりと冬を過ごした農家の暮らしに思いを寄せる。

 

豪雪地帯ほど雪に備えて準備万端

 

5年ほど前、八ヶ岳南麓に60㎝の雪が降った。「びっくらしたなー。こんな雪を見た
のは、生まれてから初めてだぁ」。近所の80歳過ぎのバアちゃんの言葉である。

100年に1回もないような大雪が数年に2回もやってくる。これはもう「数十年に一度」の異常気象と言ってはいられない。

八ヶ岳南麓の冬は、陽光に恵まれて窓辺一杯に太陽光が差し家の中は暖房が要らないほど暖かい。年間日照時間が日本で最も長いことで知られるが、これは冬季の晴天日が多いからである。

冬、太平洋沿岸を北上する低気圧が関東地方に雨や雪をもたらすが、富士山や丹沢山系があるため甲府盆地まで影響をもたらすことは少ない。東京や神奈 川が雨や雪でも、中央高速道で笹子トンネルを抜けると晴天ということもしばしばである。また日本海側ではシベリア寒気団が押し寄せ山間部に豪雪をもたらす が、北アルプスや中央アルプスなど大きな山脈に阻まれてその影響を受けることはない。

こうした内陸性の気候のため、八ヶ岳南麓は雪が降っても、せいぜい20㎝程度、ひと冬に2〜3回であった。今回は、太平洋岸の低気圧が富士山や丹沢山系を乗り越えてやってきたしわざである。

豪雪地帯では、雪に備えて体制と準備が整っている。雪が降り始めると、深夜でも除雪車に出動指令が出て、朝の出勤通学時までには生活道路が確保され る。あまり雪の降らない東京では、5㎝程度の積雪でもバス電車は大混乱する。山梨県も除雪体制が整っているとはいいがたい。除雪は建設用重機で代用してい るため、今回のような豪雪にはあまり役立たず、新潟県や長野県から除雪車を派遣して貰うほどである。

市町村が除雪する道路は、生活道路や通学道路などあらかじめ決まっている。したがって、田舎暮らしの地を積雪地帯に選ぶとすれば、その道路がどれなのかを調べておく必要がある。

薪ストーブは災害時の救世主

薪はひと冬に、薪小屋に幅2間分が必要である。我が家の薪小屋には来冬までの薪が積まれている。

薪ストーブは、3年前の東日本大震災の際、長時間の計画停電にも救世主の役割を果たした。暖房はもちろん、料理にも照明にも活躍した。

 

田舎暮らしの魅力は自給自足にあり

 

田舎暮らしの魅力は、何といっても自給自足ができることである。菜園ではあらゆる野菜が作られ、シーズンに収穫されたものは、さまざまな方法で加工され、それぞれに適した方法で貯蔵される。

我が家の食品庫には、上開きの大型冷凍庫(320リットル)があり、手づくりの生ハムやベーコンが一年分、収穫したトマト、トウモロコシ、エンドウ、ブルーベリーなど、様々な冷凍食品が蓄えられている。

都会の暮らしは、毎日のようにスーパーに買い物に出かけるが、田舎では自給自足、ストックのある暮らしが基本である。だから田舎暮らしは自然災害に強い。

数日間雪の中に閉じ込められた人も多いはずなのに、私の知る限り誰一人「田舎暮らしって大変!」とぼやく人はいなかった。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)