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《田園からの風》 ”都会でできないことを世界に発信”

この記事の投稿者: 総務

2014年7月9日

都会と農村の不幸な歴史

八ヶ岳清里高原は、かつては未開の地であったが、昭和8年に小海線が開通、昭和13年にアメリカ人牧師のポール・ラッシュが青少年教育キャンプ場として清泉寮を開設、同じ年に小河内ダムに沈む丹波山村から開拓者が入り新たな歴史が始まった。

戦後、ポール・ラッシュは酪農と高原野菜の導入を勧め理想農村の建設に尽力した。緑の牧草地に赤い屋根の牛舎は高原農村のモデルといわれた。

そこに突然やってきたのは、都会からのバブル経済だった。若い女性や高校生があたかもイナゴの大群のように押し寄せ、清里駅前を東京の原宿通りに一変させた。それはほんの瞬間で、バブル崩壊とともに消え去った。いまも駅前や国道141号沿いに当時のきらびやかな建物やハーモニカ店舗が無残な姿で残る。

あの頃の日本は異常だった。清里だけではない。どんな山奥でも少しでも平坦な山があれば、ゴルフ場開発資本がやって来て土地を買いあさった。開発途上で投げ出し、そのまま放置され荒れた山河となった所も多い。都会が田舎を荒らした時代である。自然はもちろん、人々の心まで荒廃させた。

再び都会と農村の不幸な歴史を繰り返してはならない。

厳寒期のアイディアサービス

さて今、清里はどうなっているか。

清里開拓の歴史と共に歩んできたキープ協会(清泉寮)は、広大な敷地を有する牧場を持ち、乳牛・ジャージー種の放牧飼育を主体とする循環型の酪農を行っている。そこでできるソフトクリームの美味しさは格別で、それを目的に訪れる人も多い。

キープ協会で30年前から行っている自然環境教育事業は、子どもや若者、成人を対象に様々な自然体験プログラムを持ち、現在では国際的にも高く評価されている。

清里高原には、観光協会に登録しているペンションが60軒余あり、数多くのホテル、プチホテル、カフェ、レストランなどがある。厳寒期の2月、午前10時の気温がマイナス5℃を下回ると、その日のレストランのメニューは半額サービス。ペンションは宿泊した日が下回ると次回の利用は半額。真冬なのにその日のレストランは人が並ぶ。それをきっかけにリピーターになる人も多いというから、ちょっとしたアイディアサービスである。

本ものであれ!一流であれ!

清里駅近くの国道141号沿いに「萌木の村」がある。オルゴール館や地ビールレストラン、クラフト工房、雑貨店、ホテルなど20軒ほどの複合施設である。

「萌木の村」社長は舩木上次さん(64)。父親は丹波山村からの開拓者で、戦後キープ協会で農場長を勤めた。その縁で舩木さんはポール・ラッシュに可愛がられた。「何事も本ものであれ!一流であれ!」の精神が育ち、23歳の時、「萌木の村」の原点となった喫茶店を誕生させた。現在のビアレストラン「ロック」で、そこで醸造される地ビールは、全国酒類コンクール地ビール部門総合第1位に何度も輝いている。

「大人の、成熟したお酒の文化を清里から発信したい!」。レストランの裏手の小高い丘の斜面をスコップで自分たちで掘り進み、レンガを積み上げて地中貯蔵庫を今春完成させた。年間14℃、湿度50%に保たれる洞窟の中で、ワイン、ウイスキー、地ビールを熟成させる。ワインは県内6社のワイナリーに協力してもらい、熟成が始まった。地ビールは度数を高くして寝かせるなど、新たな試みを始める。年代物のお酒をレストランやホテルで楽しめるのはいつになるのであろうか。

オルゴール博物館「ホール・オブ・ホールズ」は、世界からアンティーク・オルゴールはじめ自動演奏器など260台が収蔵されている。オルゴール曲と作曲家の思いを解説しながら音楽家のピアノ演奏のコンサートが1日2回行われる。

毎年7月〜8月上旬にかけて、約2週間の日程で、「萌木の村」特設野外会場で「清里フィールドバレエ」が開催される(今年は7月28日〜8月10日)。日本で唯一、連続上演される野外バレエ公演として、清里の夏にはなくてはならない催で、今年で25年を迎える。2004年には1万人を超え、全国から多くのファンが足を運ぶ。ヨーロッパでは野外バレエが盛んに開催されており、劇場では見ることのできない、風になびく衣装の美しさ、月に照らされる舞台、自然と共存する野外バレエならではの感動の舞台である。

舩木上次さんは夢多きロマンチスト。「ここには都会にないものがある。都会ではできないことができる。ここから世界に情報を発信してゆきたい。」と情熱的に語る。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)