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《田園からの風》 ”新たな移動の時代の始まり”

この記事の投稿者: 総務

2014年9月10日

少子高齢化・人口減少化社会の中で、全国のほとんどの県(東京や大阪を除いた)や市町村で都会からの移住者を受け入れて地域を活性化させようという定住促進事業が取り組まれている。この十年で都会の人を受け入れる施策も大きく進んだ。

地元の人々も都会から来る人に対して好意的で、以前の「来たり者」「よそ者」としてあまり歓迎されていなかった時代と比べると隔世の感がある。

そしてまた各地に出かけてみると、都会から来た多くの人々に出会う。

 

都会からの人で活気を取り戻す

 

鳥取県倉吉市に先ごろ出かけた。江戸時代の城下町で、堀割が流れ赤い瓦に白壁土蔵の立ち並ぶ古い街並み。20数年前に訪れたときは、人影が少なくすっかり衰退した町であった。

昭和40〜50年代の高度経済成長期には、倉吉に限らず地方の古い街並みは、どこも同じような状況にあった。

それが今回出かけてみると、活気のある街に変身しているのである。古い土蔵や昔の町屋を再生し、骨董や工芸品店、カフェやレストランなど、数多くの店があり、多くの観光客で賑わっている。

立ち寄ったフレッシュジュースのカフェは、埼玉からやって来た若い女性が経営。都会から移り住んだ人のお店が多い。地元の商工会も、空き家を利用して「お試し店舗」を月額5千円で1年間貸して自立への手助けをしている。

 

復活した長野市善光寺門前町

 

長野市善光寺は、昔は門前町として栄えた町だった。路地を入ると土蔵や多くの古民家が立ち並ぶが、空き家が増えて、衰退した町となっていた。昭和の末の頃である。

その町が近年、土蔵や古民家を再生した新しい店が増えて、活気を取り戻し多くの人々が訪れる町となった。

その復活の一翼を担ったのが、倉石智典さん(41歳)の空き店舗の仲介・再生事業である。

倉石さんはもともと長野市生まれ。東京の大学を卒業して都市計画事務所等に勤めていたがふるさとにUターン。「昔の賑わいのある町にしたい」と、門前町に会社を設立。空き家の所有者に働きかけて、新しい店舗として貸すことを勧める。家賃は月額5万円程度、修復費用は借り手が負担する条件。所有者は「いずれ取り壊さなければ」と考えている人も多く、10軒に1〜2軒程度しか了解が得られない。建物が登記されておらず、所有者が分からないことも多い。

こうして集めた空き店舗の見学会を毎月1回開催。ウェブサイトで告知する。見学会の参加者は20〜30歳代が多く、毎回20人ほどが参加する。県外からの参加者が半数を超え大都市圏からも多いという。

工芸品店、工房、雑貨店、アトリエ、カフェなど店舗に合わせてお店をデザイン。専門家である倉石さんに再生工事を依頼するが、入居者自身が自分好みに壁塗りや修復が可能なのも魅力となっている。

この5年間で倉石さんが手助けして新たに生まれた店舗は60軒になる。

寂れていた町も、一旦プラスに回転し始めると、そのムーブメントがどんどん拡大していく。

 

村役場職員の6割が都会から

 

「日本でいちばん小さな村」として知られた愛知県北設楽郡富山村。長野と静岡に県境を接し、山々と佐久間ダム湖に挟まれた急峻な地にあり、人口219人。平成17年に隣村の豊根村と合併し、ミニ村の座を高知県大川村に譲った。

南北朝時代に源氏の落人が隠れ住んだといわれるだけに、ほとんど平坦地はなく、民家は急斜面に石垣を築きその上に建つ。

合併する少し前、その村を訪ねた。民宿に宿泊した朝、役場を訪問する途中、10名ほどの若いお母さんたちと保育園児がバスを待っていた。村営住宅に暮らす人たちで、一見して都会から来た人たちと分かる。

役場の総務課長の話によれば、村内の子どもたちは、佐久間ダム湖を渡り飯田線で静岡県浜松市の高校に通う。ほとんどが卒業後は都会に出て戻って来ない。役場や森林組合、社会福祉施設などで人材募集しても村内出身者の応募はない。首都圏や名古屋市からの応募者で定員をはるかに超える。「今や。役場の職員の6割が都会から来た人たちです」。

この辺境な地は、都の人がつくったといわれるが、700年の時代を経て、また新たな移動の時代が始まったといえる。

地方の活性化は、移り住んだ都会の人が原動力となっている場合も多い。

大都市では、ひとりの人間の存在は小さいが、地方ではひとりの人間の重みが違うのである。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)